川崎市「日本民家園」の建築【vol.1(本館・原家・宿場)】

03.歴史的建築
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川崎市多摩区の生田緑地にある「日本民家園」は、日本各地に建っていた古民家を移築・再生して保存された、貴重な建築が軒を連ねる古民家村となっています。

25件もの再生された古民家が建ち並び、昔の日本の村風景が再現され、味わいのあるゆったりとした場所です。関東の村や信越の村などにエリア分けされている他、高倉や舞台などの建築もあります。

日本民家園案内図

今回は数が多いため4回に分けてお送りします。本記事では本館展示室原家住宅宿場の民家を紹介します。

その他のエリアについてはコチラから、是非あわせてお読み下さい。

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本館展示室

向ヶ丘遊園駅側の生田緑地の入口を入ってすぐの場所に、日本民家園の正門があり、本館の中を通過して入る形になります。本館には日本民家園に移築されている古民家に関する模型や工具などが展示されており、実物を見る前にどのように民家が作られたのかなど、当時の文化について触れられる事が出来ます。

(日本民家園の入口は正門の他に、奥門、西門、山下臨時門(身体が不自由な方用)があります。)

日本民家園の本館展示室の骨組模型

こちらは、民家園の中にある旧北村家住宅の骨組模型です。縮尺6分の1の割と大きめであり、土間部分で切断して、その奥の床上部分を見せている模型となります。床板や天井板などは最後まで貼らずに、木材の骨組の構造体をあらわにし、民家の構造美を見せています。

屋根の種類は大きく分けて3種類あり、切妻造(きりづまづくり)入母屋造(いりもやづくり)寄棟造(よせむねづくり)となります。古民家のファサード(前面)は屋根が大部分を占めますので、最も注目する部分かと思います。

日本民家園の本館展示室の建築模型

こちらは平場の民家の模型。農村の集落にあり、農家同士が離れている散村型集落の民家となります。強風から家を護るため、屋敷の周囲に防風林を設けるところが多く、季節風の影響を受けやすい山陰や北陸、関東など、各地に幅広く見られる民家の形式です。

日本民家園の本館展示室の建築模型

こちらは山地の民家の模型。急斜面な土地のため建設時はかなり苦労しますが、日当たりは良く畑作に向いた土地であり、意外と暮らしやすいようです。やはり広い平地がないため、宅地および民家は横長となり、部屋の間取りも横並びの形式となります。

こちらは海辺の民家の模型。漁業が主な生活手段となるため、船着き場の近くに集落を構え、狭い土地に密集して民家が建てられ、海辺ならではの独特の風景を作り出しています。民家の下には舟を格納して、雨風や雪から舟を守っています。

こちらは町の民家の模型。経済活動が活発化した江戸時代に、京都などの都市の見られた民家の形式です。間口が狭く奥行きの長い土地が特徴で、細長い通り庭や中庭を設けて光と風を取り入れていました。当時は、間口の広さに応じて税金が課される制度であったため、間口を狭くするように建てられています。

日本民家園の本館展示室の土壁模型

こちらは土壁の模型です。この壁は竹を格子状に組んだ小舞という部材に、下塗り(荒壁)下塗り(むら直し)中塗り上塗りが重ねられています。寺院建築では一般的な壁でしたが、農家では大多数が下塗り(荒壁)までだったようです。

日本民家園の本館展示室の継手・仕口模型

こちらは木材の継手および仕口の模型です。釘などの金具がまだ存在しない時代でしたので、様々な形に木材を加工して、各木材同士を接続していました。

日本民家園の本館展示室の大工道具

古民家を建設する際に使用した工具も展示されています。当時の大工は様々な工具を駆使して、民家を形成していきました。

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原家住宅

さて、いよいよ各民家の実物を紹介していきます。

日本民家園の原家住宅外観
日本民家園の原家住宅外観

もともと川崎市中原区小杉陣屋町に建っていた原家住宅1913年(大正2年)に竣工し、木造2階建、屋根は入母屋造桟瓦葺(さんがわらぶき)、1階部分の桁行(幅)は17.6m梁行(奥行)は13.2mの、割と豪勢な住宅です。

日本民家園の原家住宅外観
日本民家園の原家住宅外観

総欅造の住宅であり、木材は原家の持山から切り出したものが使用されています。江戸時代の民家は建築上の制約がありましたが、明治に入ってから制約がなくなったこともあり、宮大工の技術が入った豪勢な住宅が作られるようになり、原家住宅についても時代の変化に伴い、豪勢な技術の意匠が入っています。

日本民家園の原家住宅内観
日本民家園の原家住宅内観

中は広々として要所に壮麗な意匠が施されており、間取りは14畳間が2つ、10畳間が3つ、8畳間が4つ、6畳間が2つといった大規模な住宅になっています。

日本民家園の原家住宅内観
日本民家園の原家住宅内観

建物だけでなく、照明や置物を見ても原家住宅の豪華さを物語っており、かなりの財産があったのではないかと想像出来ます。

原家は中原街道沿いで肥料問屋を営み、大株主になると銀行経営や県議会議長などを務めていました。戦後は陣屋荘(じんやそう)とういう名の料亭となり、周辺地域の人々に親しまれてきた住宅です。

小杉陣屋町に、原家入口の門や稲荷社が残されています。それについても以下の記事で紹介していますので、ぜひ併せてご覧下さい。

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宿場

鈴木家住宅

日本民家園の宿場の鈴木家住宅外観

鈴木家住宅は、もともと福島県福島市に建っていた、奥州街道の宿駅の馬宿(うまやど)でした。馬宿とは、馬喰(ばくろう。馬商人)や馬方(うまかた。馬の世話役)を泊める宿屋となります。馬の産地であった岩手県南部地方から来た人々に利用されていました。

屋根は前部と後部で形式が違い、前部が寄棟造、後部が入母屋造であり、いずれも茅葺きとなります。

日本民家園の宿場の鈴木家住宅外観

深い軒や日除けの板暖簾(いたのれん)格子窓など、江戸時代の宿場の特徴がよく現れている建築となります。正面は、揚戸(あげど)や内開きの大戸(おおど)となっており開放感があります。揚戸とは、板を上に収納するシャッターのような開口部です。

日本民家園の宿場の鈴木家住宅みせ

入口の左手、外側からもよく見える位置に、泊まり客の受付をするみせがあります。

日本民家園の宿場の鈴木家住宅次の間

客室は、みせの横の部屋であるじょうだん(上段)と、その隣のつぎのま(次の間)。そして中2階のスペースとなります。

日本民家園の宿場の鈴木家住宅土間

客が連れ添ってきた馬は、土間にあるまや(馬屋)10数頭を泊めることが出来たそうです。

日本民家園の宿場の鈴木家住宅茶の間
日本民家園の宿場の鈴木家住宅勝手

建物の奥には、なんど(納戸)ちゃのま(茶の間)かって(勝手)といった、鈴木家の居住空間があります。

鈴木家はもともと稲作や養蚕(ようさん)を行う農家でしたが、宿屋や醤油の醸造業などを営んでいた時代がありました。民家園に移築されたのは鈴木家の主屋(宿屋と居住空間)のみで、移築前は背後に醤油蔵、木小屋、馬屋、牛小屋などが並んでおり、さらにその背後には田畑もある非常に広い土地でした。

ただし、鉄道などの交通機関の普及に伴って馬を使う人が減っていき、馬宿の営業は明治20年頃に終わりを迎えました。

井岡家住宅

日本民家園の宿場の井岡家住宅外観

井岡家住宅は、もともとは奈良県奈良市の柳生(やぎゅう)街道沿いに建っていた商家です。掲げられている看板の通り油屋を営み、後に線香屋として製造・販売を行っていました。

外観は、屋根は桟瓦葺切妻造、外壁上部は漆喰で塗り込んでおり、防災を考慮した造りになっています。

日本民家園の宿場の井岡家住宅入口
日本民家園の宿場の井岡家住宅みせ

みせしもみせ、外観の庇や格子、しもみせの手前にある折りたたみ式の揚見世(あげみせ)など、商家建築らしさが残されています。みせは商いの場、しもみせは品物の取引、揚見世は品物の陳列に使い分けられていました。移築前は外側にガラス戸もあったそうです。

後に商売をやめてからは、揚見世は夕涼みなどに使われていました。

日本民家園の宿場の井岡家住宅座敷

建物の奥には、お客さんをおもてなしする座敷があります。和の意匠の照明が趣のある雰囲気を作り出しています。

日本民家園の宿場の井岡家住宅土間

間取りは一方を通り土間(とおりどま)としており、土間に沿って縦一列に3部屋が並んでいます。

土間にはくどと呼ばれるお釜が2つあり、奥の釜は日常用、手前の祀られている釜は祭祀用として使われていました。

日本民家園の宿場の井岡家住宅台所

中央部にはだいどころ(台所)があり、もともと神棚と仏壇があったそうです。

日本民家園の宿場の井岡家住宅天井

天井を見上げると、上屋梁小屋束などの立派な構造体が見えます。茅葺屋根は竹を組んでその上に茅をのせる工法になりますが、内部からは竹が組まれた様子が伺えられます。

井岡家は、細長い土地に中庭を挟んで3つの建物が南北に連なった、典型的な町屋の民家です。3つの建物のうち、日本民家園に移築されたのは一番南の主屋のみです。

佐地家門・供待

日本民家園の宿場の佐地家門・供待外観

佐地家門・供待(ともまち)は、もともと名古屋城の東南にあり、禄高250石の武家屋敷の出入口でした。民家園にあるのは門だけで、主屋は名古屋に残されています。供待とは、お供が主人の帰りを待つための施設となります。

この門は棟門(むなかど)と呼ばれる、公家や武家などで用いられた屋根つきの門の形式となっています。入口の両袖部に突出している小屋根は、提灯を吊すためのものです。

日本民家園の宿場の佐地家門・供待外観

屋根は桟瓦葺入母屋造となっており、壁は漆喰仕上げとしています。

日本民家園の宿場の佐地家門・供待内観

内部は土間門番部屋供待(囲炉裏のある板の間)からなる間取りです。

外壁は漆喰仕上げで城郭風なのですが、内壁は中塗りまでとなっています。また、軒裏は木部を露出させています。武士の家は体面を重んじていたため、外部は立派に、内部は簡素な造りになっているわけです。

佐地家は後に、1904年(明治37年)に陶器の輸出を手がける会社を創業し、主屋は陶器の絵付けをする工場として、供待だったこの建物は一時期は経営者の住まいに、その後は陶器の倉庫として使われました。

三澤家住宅

日本民家園の宿場の三澤家住宅外観

三澤家住宅は、もともと長野県伊那市にある伊那街道の宿駅・伊那部宿(いなべじゅく)にありました。

農業を主としてきましたが、江戸時代の末に製薬・売薬業を行っていました。その薬屋が大成功し、収益をもとに60000坪におよぶ農地経営をしていたそうです。

日本民家園の宿場の三澤家住宅看板

また薬屋と並行して、つちやという屋号で旅籠(はたご)も営んでいました。善光寺詣りや伊勢参り客、長野県知事などの身分の高い客も宿泊していた歴史があります。

日本民家園の宿場の三澤家住宅外観

一般的な入口である大戸口(おおどぐち)の他に、このような立派な門構えがあり、式台玄関(しきだいげんかん)を備えた座敷へつながる入口があります。身分の高い客をこの門から入れて、座敷に案内していました。

日本民家園の宿場の三澤家住宅外観

屋根は石置板葺(いしおきいたぶき)切妻屋根となっており、クリの木を長さ40~60cm、幅10cm、厚さ1cmほどに切って並べ、板を押さえるためにヒノキで作られたヤワラ(押縁)を置き、その上に平らな石を置く形式です。石の大きさが揃っているように見せるため、棟に近いところほど大きい石を置いています。確かに、石の大きさが同じに見えますね。

ただ、天気が悪い時は雨漏りがしやすく、屋根の傾斜が緩く水がたまりやすいため、屋根板が腐りやすかったそうです。

日本民家園の宿場の三澤家住宅みせ
日本民家園の宿場の三澤家住宅土間

大戸口から通り土間(とおりどま)を通って敷地奥へつながる間取りで、商家の特徴を表しています。壁にはメニューが掲げられ、お店らしい内装になっています。

日本民家園の宿場の三澤家住宅おおえ
日本民家園の宿場の三澤家住宅台所

一方では、囲炉裏のあるおおえが間取りの中心にあり、後方には馬屋台所があります。伊那地方の農家の特徴を表しており、半農半商の性格が現れた建物となっています。

日本民家園の宿場の三澤家住宅の免震対応

三澤家住宅には免震が施されており、地震の衝撃から民家を守っています。既存の建物の基礎に、免震装置を施した工法は免震レトロフィットと呼ばれています。

日本民家園の宿場の三澤家住宅土台

三澤家に限らず古民家全般の話になりますが、土間部分の土台は、礎石の上に土台となる木材をのせ、そこに柱を建てる土台建(どだいだて)という工法になります。土間以外は、礎石の上に直接柱を建てる石場建(いしばだて)という工法が使われていました。

日本民家園は、昔の日本の生活を目で見て触れることが出来る、貴重な建物が並んだ名所となります。昔の生活を体感するためにも、一度足を運んでみては。

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その他のエリア

その他のエリアについても別記事でまとめています。是非あわせてお読み下さい。

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ご利用案内・アクセス

開館時間3~10月:9:30~17:00(入館は16:30まで)
11~2月:9:30~16:30(入館は16:00まで)
休館日月曜日(祝日の場合は開園)、祝日の翌日(土日の場合は開園)、年末年始
入館料大人   :500円(400円)
高・大学生:300円(240円)
中学生以下:無料
65歳以上 :300円(240円)
※()内は団体料金(20名以上)
電話044-922-2181
住所神奈川県川崎市多摩区枡形7-1-1
アクセス<電車>
 小田急線 向ヶ丘遊園駅 南口より徒歩13分
 JR南武線 登戸駅 生田緑地口より徒歩25分
<バス>
 向ヶ丘遊園駅から川崎市バス(溝口駅南口 行) 生田緑地入口 下車徒歩3分
 向ヶ丘遊園駅から東急バス・川崎市バス(たまぷらーざ駅 行) 生田緑地入口 下車徒歩3分

※2021年7月現在の情報です。最新の情報は公式サイトでご確認下さい。


参考元:

川崎市立日本民家園ホームページ

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