日本でも有数の参拝客数を誇る「川崎大師」は大寺院なだけあって、境内には20を越える建物があり、厄をことごとく排除する厄除け大師として知られています。
正式名は金剛山金乗院平間(へいけん)寺といい、1128年に武士の平間兼乗(ひらまかねのり)が、海から弘法大師の木像を引き上げ、尊賢上人(そんけんしょうにん)とともに寺を建立しました。
今回は数が多いため3回に分けてお送りします。本記事では上の境内図の右側、不動門・不動堂エリアの建築を紹介します。
その他のエリアについてはコチラから、是非あわせてお読み下さい。
不動門
不動門は当初、1945年(昭和20年)4月15日の空襲により焼失した山門の跡地に建っていました。1977年(昭和52年)に大山門が建立されたことに伴って、不動堂の正面に不動門として移築されました。
構造は木造であり、屋根は銅板葺きの入母屋造り。軒の出が非常に深く、屋根を支える斗拱(軒下の組み物)の間隔が密であり、力強さがあります。
八角五重塔
八角五重塔は、弘法大師・空海上人の入定(にゅうじょう。空海が永遠の瞑想に入っていること)の1150年の記念および本尊大開帳(10年に一度ご本尊さまをお開帳し、供養を捧げ様々な法要が執り行われる儀式)の記念事業として建立されました。
設計は大岡實建築研究所、施工は大林組です。不動門や不動堂など、川崎大師の境内にある昭和から平成にかけて再建されたほとんどの建物は、大岡實建築研究所・大林組が手がけています。工事期間は1980年(昭和55年)~1983年(昭和58年)であり、地下2階、地上5階建て、高さ31.5mの鉄骨鉄筋コンクリート造となります。
奈良時代に建てられた法隆寺の塔にならって、1階に対して5階の面積を小さくし、堂々とした建ち姿にしています。
意匠については、穏やかさと華麗さを出すように考えられています。八角形平面であり、軒の出が大きく、骨組みを朱色に仕上げて、垂木の先などに金の装飾を施しているので、明るく華やかな外観です。
川崎大師は真言宗となりますが、真言宗の塔は宝塔となり、宝塔の塔心は円になります。寺院建築において八角堂は円堂と言われ、華やかさを出す形になります。境内の中でも、多くの人が八角五重塔に目が行くと思います。
鐘楼堂
鐘楼堂は、毎年大晦日の除夜の鐘の他、時の記念日(6月10日)、広島原爆忌(8月6日)、長崎原爆忌(8月9日)、終戦日(8月15日)にも打たれます。
1789年(寛政元年)正月に創立され、もともと大本堂の前にありました。しかし、1923年(大正12年)の関東大震災により倒壊したため、1930年(昭和5年)に現在の場所に移転されました。その後、1945年(昭和20年)の東京大空襲によりまたしても倒壊してしまいましたが、1948年(昭和23年)に再建されました。
2度にわたり再建されてきた鐘楼堂もまた、軒の出が深く、石垣で上げているせいか、面積は大きくないものの、とても立派な建造物です。
大本坊
大本坊は1934年(昭和9年)の創建ですが、1991年(平成3年)~1992年(平成4年)にて、大岡實建築研究所の設計と、大林組の施工によって改修されています。
もともとは、ご本尊の弘法大師像が安置されていた所であり、本堂としての役割を担っていましたが、ご本尊が大本堂へ移動になり、現在は寺務所として使われています。そのため、一般参拝者は立ち入り出来ません。
構造は鉄筋コンクリート造ですが、大本堂などと同様に斗拱が設けられています。また、正面中央には兜のような形をした唐屋根が1階と2階の2ヶ所に設けられ、貫禄ある風格を漂わせています。
不動堂
不動堂は、不動門の真正面にあるお堂であり、成田山新勝寺から勧請(かんじょう。神仏の分霊を迎えること。)された大聖不動明王が安置されています。
1890年(明治23年)に創建されていますが、現在の建物は1964年(昭和39年)に再建されたものとなります。大岡實建築研究所の設計と、大林組の施工による鉄骨鉄筋コンクリート造です。
不動堂の正面には献香所があり、屋根の四方に付いた角のようなカールした装飾がアクセントになっています。
不動堂の横にはこのような手と口を清めるお水屋があり、唐屋根風の屋根が乗っています。
稲荷堂
稲荷堂は、境内の建物の中で唯一、戦火を逃れた貴重なお堂になります。
三つ並んだ鳥居の先にあり、静かにひっそりと佇んでいます。建物にも年季が入っており、再建はされずに長年残っていることが伺えます。
中書院
中書院は、1966年(昭和41年)5月に建てられた茶室になっており、信徒接待などに使用されています。南側「光聚庵」、北側「心月庵」、「静嘉軒」(立礼席)で構成されています。
正面にある生垣や松などの緑が、趣のある茶室を作り出しています。
屋根は銅板の上に瓦屋根が乗っており、壁は土壁に屋根の構造体の一部が見え、古民家のような雰囲気となっています。
信徒会館
信徒会館は、地下1階、地上5階建ての鉄骨鉄筋コンクリート造であり、地下の大講堂や300名収容ホール、結婚式場など多用な機能を備えた施設です。こちらの施設も設計は大岡實建築研究所、施工は大林組が手がけ、1972年(昭和47年)~1973年(昭和48年)11月にて工事されました。
同時期に、信徒会館二階から大本堂へ渡り廊下が建設されました。渡り廊下も境内の景観と合わせるように、切妻造りの瓦屋根とし、窓に縦格子を設けています。
信徒会館は大本堂の方から信徒会館の施設がある程度見えるため、外観は寺院建築と同様の意匠で仕上げています。ただ、寺院建築はそこまで多層な建物はなく、多くても3層までで、上に行くに従って面積を縮小しているため、多目的な用途があり面積が必要な信徒会館の建設は苦戦を強いられたようです。
解決方法として、3階部分までを1重のように見せるため、1重目の屋根の下に入れて、金属製サッシュで縦の線を強調させています。屋根は3重ですが、実際には地上5階になり、なるべく面積を減少させないようにしています。上の画像は大本堂とは反対側から見た様子ですが、こちらから見ると層と屋根の工夫をしているのがよく分かります。
1~2階部分が3階部分よりも張り出しているのは、3階まで壁の位置を同じにすると高く見えすぎてしまうため、途中にアクセントを付けて、安定感を感じさせるようにしています。また、5階部分を最も小さくさせることで、これも安定感を感じさせるよう調整されています。
屋根については、全て瓦屋根にすると重苦しくなるため、軒先のみに一列並びに瓦を並べて、軽快でかつ日本的な外観にしています。
こちらは西側の道路から見た様子です。1~2階までが1層分に見え、上に行くにしたがって面積が縮小されているので、寺院建築のような外観になっています。
また、窓はアルミサッシュにブロンズペンガラスにして寺院のような色彩とし、屋根は軒の出を深くして、頂部には象徴的な宝輪を載せているため、寺院境内に建っていても違和感がありません。
西解脱門
不動堂と信徒会館の間には西解脱門があります。メイン入口の大三門とは反対側に位置しています。
1985年(昭和60年)に建てられ、設計は大岡實建築研究所、施工は大林組による鉄骨鉄筋コンクリート造の門です。この門も例外なく境内の風景に合わせて、斗拱(ときょう。柱上部の木組み)や瓦屋根の仕上げをしています。
清浄光院
清浄光院は、1~2階にお檀家(葬祭や供養などを専属で営んでもらう代わりに、お寺を経済的に支援する家)のためのお堂、3階に寺宝収蔵庫、地下に大型倉庫がある施設です。
清浄光院に来るには境内から行けそうにもなく、西側の道路から廻っていく感じになります。
1995年(平成7年)~1996年(平成8年)にて建てられ、この施設も設計は大岡實建築研究所、施工は大林組が手がけた鉄筋コンクリート造の建物です。
欄楯(らんじゅん)を廻らせている基壇の上に建っているように見えますが、実際は基壇部分が1階となっています。
1重目の屋根までが2~3階となっており、外壁は縦格子のカーテンウォールです。中央には八角塔を載せており、ペントハウス(鉄筋コンクリート造の建物の屋上に設けられた住居)として利用されています。
軒の出の様子は鶴翼をイメージしており、木造ではここまで軒を出せないので、鉄筋コンクリートの特色を生かした意匠です。
川崎大師は日本有数の参拝客数の寺院だけあり、その風格や規模は壮大さを感じます。厄除けにもかなり御利益があるそうなので、観光としても一度訪れていただくことをオススメします。
その他のエリア
その他のエリアについても別記事でまとめています。是非あわせてお読み下さい。
アクセス
電話 | 044-266-3420 |
---|---|
住所 | 神奈川県川崎市川崎区大師町4-48 |
アクセス | 京急大師線 川崎大師駅 徒歩9分 (駅南口を出たら厄除門をくぐり、表参道経由から訪れるのがオススメです。) |
参考元:
・川崎大師不動堂 | 関東三十六不動巡り
・大岡實建築研究所 ホームページ
・Pichori 神奈川県:川崎大師の不動門
・川崎大師 平間寺 - 真言宗智山派 大本山 大本坊、薬師殿 | 愛するご朱印とスターバックス
・川崎大師 その1 | きょーちゃんの御朱印日記